綾門大道・中山門跡

綾門大道・中山門跡

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首里城につながる大通りは、綾門大道と呼ばれていました。中山門から守礼門まで約500メートルにわたって東から西に通っており、一部の歴史家は「琉球の黄金の道」と呼んでいます。この大通りは広いパブリックスペースで、王世子の宮殿、王室の宿泊施設、玉陵、薩摩藩からの使節団が用いた邸宅、安國寺や天界寺、そして琉球の土着の信仰において重要な聖域である御嶽と呼ばれる場所など、重要な建築物、宮殿、そして貴族の住居が大通りに面して並んでいました。往時、綾門大道には、その重要性を反映するかのように、細かく砕いて滑らかに加工した石灰岩の砂利が敷かれていました。

綾門大道を主に行き交ったのは、首里城の周辺に住む上流階級のコミュニティーの人々で、この通りは彼らの交流と文化の中心地となっていました。一般の人が気軽に綾門大道に来ることは少なく、この場所では静かで節度のある振る舞いや正しいエチケットに従うことが社会的マナーとして要求されていたと考えられます。しかし、新年の祝賀の際には、綾門大道では一般公開された催しが行われました。その中で競馬は、出場者はスピードではなく馬を乗りこなすスタイルを競いました。また、大人数の綱引きも行われました。伝統的な旧暦の7月に行われる、死者が帰ってくるという旧盆では、臨時の屋台が設置され、一般の人々に食べ物や飾り物が販売されました。

今日では、綾門大道をなぞるように現代の道が整備され、首里城につながっています。玉陵と安國寺は(当時の姿とは異なるものの)まだ残っていますが、かつて綾門大道に並んでいた大きな邸宅群の跡地には、現在は学校やその他の現代の建築物が並んでいます。

中山門

中山門という、1428年に作られた中国様式の屋根付きの木造の門が、綾門大道の開始地点を示していました。約100年後、守礼門が綾門大道のもう片方の端に作られました。これら2つの門の設計はほとんど同一で、これらは数世紀にわたって首里城への道を示す街の大きな目印になっていました。

中山門という名前は、1425年に明の皇帝からの使節団が琉球の尚巴志王(1372–1439)の即位と戴冠を祝って贈った寄贈品に由来します。その寄贈品とは、中山と書かれた碑で、これは尚巴志王が3つの対立する地区の統一に成功して琉球王国とした地域の名前です。中山門は、この碑を複製した大きな漆塗りの板を展示するために建てられました。これは、尚巴志王が中国からも王として正式に認められた存在であることを公に示すための手段でした。中山門は、政治面でも文化面でも極めて重要なモニュメント的存在です。1870年代に王朝が解体されると、首里城につながる綾門大道の重要性が低下したことから、中山門は徐々に荒廃しました。中山門は1908年に解体され、今では写真でしか見ることができません。

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