第32軍司令部壕

第32軍司令部壕

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第32軍司令部壕は、第2次世界大戦中に大日本帝国陸軍によってアメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために首里城の地下に作られた壕群です。工事が始まったのは1944年12月で、1945年3月に沖縄戦が始まる直前まで続きました。司令部は、5月末に日本軍が島の南部に後退するまで、約1ヶ月間使われました。この司令部の施設は、沖縄戦における首里城の命運、そして沖縄の人々が払った甚大な犠牲と失われた人命について理解する上で重要です。

首里に作られた理由

首里城は、琉球王国が廃止されて沖縄が日本の県になった1879年に日本軍の駐屯地になりました。その数十年後、太平洋戦争で連合軍が日本に近づいてくると、日本軍は侵攻を想定し、それに備えるために極めて攻め入られにくい防衛体制が必要になると考えました。日本が占領した太平洋の島々の多く、そして沖縄や日本本土で、地下に防衛用の施設が作られました。この大規模な司令部壕は、いくつかの有利な点を活かすように作られました。首里城が立つ丘は、硬い琉球の石灰岩でできており、激しい艦砲射撃や空襲にも耐えられると考えられました。また、首里城が立つ丘は標高が高く、周囲の地形をよく見渡せました。ここに軍の基地を置くことで、侵攻時には必然的に攻撃目標となり、首里城やその他の貴重な歴史的遺構が失われるリスクがあるのではないか、ということは考慮されなかったようです。4月と5月のアメリカ海軍の戦艦からの大規模な艦砲射撃では司令部壕が集中的に破壊され、その後の地上戦や空襲も重なり、首里では地面に立つものほぼ全てが破壊されました。日本軍の駐屯隊は、5月末に南部の摩文仁に逃れることができました。司令部壕は一部が破壊されずに残っていますが、危険すぎるため一般公開はされていません。

配置と設備

司令部壕は5本のトンネルが1本の中心トンネルから枝分かれする構造になっており、長さは合計1キロメートルほどです。司令部壕はハンタン山のコンクリートの入り口から首里城の下に続き、反対側の金城町に達します。最も深いところで、首里城から約30メートルの深さがあります。5つの大きな入り口がありましたが、そのほとんどは今では見ることができなくなっています。トンネルには、1,000人の士官、志願兵、労働者、学生などのための施設が作られ、その中には朝鮮半島からの労働者も含まれていたとの説もあります。兵器庫や技術関連の施設に加えて、数多くの事務所、台所、談話室、そして居住区がありました。司令官用の大きな部屋や会議室もありました。

撤退と戦後における重要性

日本軍はこの場所から撤退する際、この場所が侵攻してくる軍によって使われることがないように、爆薬を爆発させました。これによって一部は崩壊しましたが、その他は無傷のままでした。戦後、まだ入ることができる部分には崩壊を防ぐために鋼鉄の柱や梁が設置され、安全のために入り口は塞がれました。その後時間をかけて、沖縄戦や首里城に関して教えてくれる遺構としての評価が高まりました。

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