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儀保紙漉所跡
ギボカミスキショアト

とじる

かつてこの付近には、儀保川(ジーブガー)の水を利用して、琉球王府が公に使う上質の紙「百田紙(ムンダガミ)」をつくった紙漉所、「儀保紙漉所(ジーブ カビシチドゥクル)」がありました。
琉球紙がはじめて沖縄史に登場するのは1694年頃で、大見武馮武という人が、首里王府の命を受け薩摩(鹿児島県)で杉原紙と百田紙の紙漉き技法を学んで帰国し、城下の首里金城村で紙を漉いたといわれています。
以後、琉球の紙漉きは王都首里を中心に発達し、金城村で百田紙と杉原紙、儀保村宝口で百田紙、山川村で芭蕉紙が漉かれ、その技術は久米島、宮古島、多良間島、石垣島、西表島にも伝授されています。
現在は、琉球紙は首里儀保町にある「蕉紙菴」において安慶名清氏が先人の技術を復元した故勝公彦さんの遺志を受け継ぎ、芭蕉紙・琉球紙の魅力を伝え続けています。

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