loading
  • 首里についてトップ
  • 首里の古地図
  • 首里三平等

まちに溢れる豊かな水

高台に位置する首里は湧水が豊富であり、国王をはじめ首里の人々の生活を潤してきました。
琉球石灰岩の地下から湧き出た水は、井戸[カー]や樋川[フィージャー]で受け止められます。
こうした史跡は、現在でも首里のいたるところに分布しており、人々の信仰の対象や涼の空間と
なっています。

scroll

まちに溢れる豊かな水

まちに溢れる豊かな水

高台に位置する首里は湧水が豊富であり、国王をはじめ首里の人々の生活を潤してきました。
琉球石灰岩の地下から湧き出た水は、井戸[カー]や樋川[フィージャー]で受け止められます。
こうした史跡は、現在でも首里のいたるところに分布しており、人々の信仰の対象や涼の空間と なっています。

城とまちを結ぶ道

首里城の城下では、城を起点に幹線道がはりめぐらされそこに上級士族の屋敷が建てられました。
また、王府の役所や社寺・拝所など、王国を統治するために必要な施設が集中していました。
先の大戦で多くの建造物は失われましたが、城と各地(間切り)を結んだ宿道や御殿、屋敷の区
画など、王都の雰囲気は現在も継承されています。

scroll

城とまちを結ぶ道

城とまちを結ぶ道

首里城の城下では、城を起点に幹線道がはりめぐらされそこに上級士族の屋敷が建てられました。
また、王府の役所や社寺・拝所など、王国を統治するために必要な施設が集中していました。
先の大戦で多くの建造物は失われましたが、城と各地(間切り)を結んだ宿道や御殿、屋敷の区 画など、王都の雰囲気は現在も継承されています。

見事な琉球石造文化

日本の「木の文化」に対し、琉球は「石の文化」に象徴されます。
先の大戦で多くの木造建造物は失われてしまいましたが、石造建造物は消失することなく今に伝
えられました。
まちを歩くと、首里城の城壁をはじめ石畳道、石垣、石橋、井戸、墓など、王国の技術の粋を集
めて整備された見事な石造建造物をみることができます。

scroll

見事な琉球石造文化

見事な琉球石造文化

日本の「木の文化」に対し、琉球は「石の文化」に象徴されます。
先の大戦で多くの木造建造物は失われてしまいましたが、石造建造物は消失することなく今に伝えられました。
まちを歩くと、首里城の城壁をはじめ石畳道、石垣、石橋、井戸、墓など、王国の技術の粋を集めて整備された見事な石造建造物をみることができます。

王朝文化と伝統工芸

琉球は亜熱帯島嶼地域の気候・風土や諸外国との外交、貿易を通じて、独自の琉球文化を発展さ
せてきました。
首里には、王家や上級士族が利用する日常品をはじめ、海外への贈答品として紅型や織物、漆器
など工房が数多く存在しました。
これらは沖縄を代表する伝統文化・工芸技術として受け継がれています。

scroll

王朝文化と伝統工芸

王朝文化と伝統工芸

琉球は亜熱帯島嶼地域の気候・風土や諸外国との外交、貿易を通じて、独自の琉球文化を発展させてきました。
首里には、王家や上級士族が利用する日常品をはじめ、海外への贈答品として紅型や織物、漆器など工房が数多く存在しました。
これらは沖縄を代表する伝統文化・工芸技術として受け継がれています。

城とまちの復興と再生

1879年の廃藩置県により琉球王国は廃止され、沖縄県となりましたが、そののちも首里の命運は
首里城とともにありました。
先の沖縄戦では、首里城の地下に日本軍の司令部壕が築かれたため、首里全体が米軍の攻撃目標
となったのです。
美しかった首里城と首里のまちは、灰燼と化してしまいました。
戦後、首里の人々は跡形もなくなったその地で再びまちを復興させました。

そして平成の時代――。

多くの人々の強い思いと復元活動の後押しをうけて、1992年に首里城は復元されました。
首里のまちは、昔ながらのたたずまいと伝統を守りつつ、首里城とともに新しいまちとして生き
つづけています。

城とまちの復興と再生

城とまちの復興と再生

1879年の廃藩置県により琉球王国は廃止され、沖縄県となりましたが、そののちも首里の命運は首里城とともにありました。
先の沖縄戦では、首里城の地下に日本軍の司令部壕が築かれたため、首里全体が米軍の攻撃目標となったのです。
美しかった首里城と首里のまちは、灰燼と化してしまいました。
戦後、首里の人々は跡形もなくなったその地で再びまちを復興させました。

そして平成の時代――。

多くの人々の強い思いと復元活動の後押しをうけて、1992年に首里城は復元されました。
首里のまちは、昔ながらのたたずまいと伝統を守りつつ、首里城とともに新しいまちとして生きつづけています。

首里についてMENU