首里三平等とは
王府時代の首里は「三平等(ミフィラ)」 とよばれる三つの行政区域に分けられていました。各平等の呼び方は、南風之平等(ハエヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)、西之平等(ニシヌフィラ)です。1879年 琉球では「琉球処分」という廃藩置県が行われましたが「平等(フィラ)」はその1年後に廃止され、首里は新たに編成されることになりました。明治39年には、西原村の一部であった石嶺・平良が首里区(当時)に加わり、大正9年には同じく西原村の末吉が加わりました。こうして現在の首里地区となりました。1954年首里市は那覇市と合併し、現在の住所表示は「那覇市首里○○町」と首里がつくようになっています。
次に各平等の起こりをみてみます。まず、「南風之平等」は南風(ハエ)という呼び方からして首里城の南側の区域が考えられます。首里城から南に開く門に「継世門(けいせいもん)」がありますが、この門はかつて首里城の第一門であったとのいわれがあります。「南風之平等」はこの継世門の前にある地域(赤田、崎山)からはじまったとされ、次第に地域が整備、拡大することで、鳥小堀(トンジュムイ)、当之蔵、大中、桃原まで取りこんでいったのではないかと考えられています。
次に「西之平等」ですが、沖縄の方言では「北」を「ニシ」とよびます。「西」は当て字です。 「南風之平等」の北側にあることから「西之平等」となったと考えられています。
最後に「真和志之平等」ですが、真和志の語源は現在もわかっていません。真和志之平等は、首里城の南から西にかけた斜面に広がった地域にあたります。定かではありませんが、首里城正殿の向きが南から西に変わり、歓会門と綾門大道が整備された頃からこの区域が発展してきたのではないかと考えられています。
「首里あるき」の制作にあたり、首里のまちを昔と同じように「南風之平等」「西(北)之平等」「真和志之平等」に区分けしました。「三平等(ミフィラ)」と呼ばれる首里独特のまちの成り立ちを肌で感じながら、琉球の都「首里あるき」をお楽しみください。
首里三平等とは
王府時代の首里は「三平等(ミフィラ)」 とよばれる三つの行政区域に分けられていました。各平等の呼び方は、南風之平等(ハエヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)、西之平等(ニシヌフィラ)です。1879年 琉球では「琉球処分」という廃藩置県が行われましたが「平等(フィラ)」はその1年後に廃止され、首里は新たに編成されることになりました。明治39年には、西原村の一部であった石嶺・平良が首里区(当時)に加わり、大正9年には同じく西原村の末吉が加わりました。こうして現在の首里地区となりました。1954年首里市は那覇市と合併し、現在の住所表示は「那覇市首里○○町」と首里がつくようになっています。
次に各平等の起こりをみてみます。まず、「南風之平等」は南風(ハエ)という呼び方からして首里城の南側の区域が考えられます。首里城から南に開く門に「継世門(けいせいもん)」がありますが、この門はかつて首里城の第一門であったとのいわれがあります。「南風之平等」はこの継世門の前にある地域(赤田、崎山)からはじまったとされ、次第に地域が整備、拡大することで、鳥小堀(トンジュムイ)、当之蔵、大中、桃原まで取りこんでいったのではないかと考えられています。
次に「西之平等」ですが、沖縄の方言では「北」を「ニシ」とよびます。「西」は当て字です。 「南風之平等」の北側にあることから「西之平等」となったと考えられています。
最後に「真和志之平等」ですが、真和志の語源は現在もわかっていません。真和志之平等は、首里城の南から西にかけた斜面に広がった地域にあたります。定かではありませんが、首里城正殿の向きが南から西に変わり、歓会門と綾門大道が整備された頃からこの区域が発展してきたのではないかと考えられています。
「首里あるき」の制作にあたり、首里のまちを昔と同じように「南風之平等」「西(北)之平等」「真和志之平等」に区分けしました。「三平等(ミフィラ)」と呼ばれる首里独特のまちの成り立ちを肌で感じながら、琉球の都「首里あるき」をお楽しみください。
南風之平等(ハエヌフィラ)
南風之平等(ハエヌフィラ)は首里台地のほぼ中心部にあたる地域にあります。首里三平等(ミフィラ)における「西(北)之平等」 と「真和志之平等」 に挟まれ、首里城の南側から北西側に広がった地域一帯をさします。
もともと南風之平等は、首里城正門が南向きだった赤田御門(アカタウジョー)側や首里城の東側から南側にあたる鳥小堀村(トンジュムイ)・赤田村・崎山村からはじまったと考えられており、特にこの一帯は首里三箇(シュリサンカ)と呼ばれ、金城村や内金城村(ウチカナグシクムラ)とともに早くから開けた地域でした。その後、首里域内の発展により北西側の桃原村が南風之平等の地域に加わりました。
南風之平等には鳥小堀村・崎山村・赤田村・当蔵村・大中村・桃原村の6ヶ所の村がありました。これらは現在の首里鳥堀町・首里崎山町・首里赤田町・首里当蔵町・首里大中町・首里桃原町です。首里城の北側にある当蔵は、首里の中心に位置し寺院が多く集中しています。北西側にあたる大中・桃原には、御殿(ウドゥン)や殿内(トゥンチ)とよばれる高級士族の屋敷が集中していました。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられていましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
南風之平等(ハエヌフィラ)には「首里殿内(シュリドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「首里大阿母志良礼(シュリオオアムシラレ)」が管轄していました。また、「首里殿内」の近くには三平等殿内を支配する「聞得大君御殿(チフィジンウドゥン)」があり、国家的な祭祀儀式を執り行う時は、最高女神官である「聞得大君加那志(チフィジンガナシ)」とともに行なわれていました。
南風之平等(ハエヌフィラ)
南風之平等(ハエヌフィラ)は首里台地のほぼ中心部にあたる地域にあります。首里三平等(ミフィラ)における「西(北)之平等」 と「真和志之平等」 に挟まれ、首里城の南側から北西側に広がった地域一帯をさします。
もともと南風之平等は、首里城正門が南向きだった赤田御門(アカタウジョー)側や首里城の東側から南側にあたる鳥小堀村(トンジュムイ)・赤田村・崎山村からはじまったと考えられており、特にこの一帯は首里三箇(シュリサンカ)と呼ばれ、金城村や内金城村(ウチカナグシクムラ)とともに早くから開けた地域でした。その後、首里域内の発展により北西側の桃原村が南風之平等の地域に加わりました。
南風之平等には鳥小堀村・崎山村・赤田村・当蔵村・大中村・桃原村の6ヶ所の村がありました。これらは現在の首里鳥堀町・首里崎山町・首里赤田町・首里当蔵町・首里大中町・首里桃原町です。首里城の北側にある当蔵は、首里の中心に位置し寺院が多く集中しています。北西側にあたる大中・桃原には、御殿(ウドゥン)や殿内(トゥンチ)とよばれる高級士族の屋敷が集中していました。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられていましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
南風之平等(ハエヌフィラ)には「首里殿内(シュリドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「首里大阿母志良礼(シュリオオアムシラレ)」が管轄していました。また、「首里殿内」の近くには三平等殿内を支配する「聞得大君御殿(チフィジンウドゥン)」があり、国家的な祭祀儀式を執り行う時は、最高女神官である「聞得大君加那志(チフィジンガナシ)」とともに行なわれていました。
真和志之平等(マージヌフィラ)
真和志之平等は、首里城の南方から西方へかけて斜面地を扇状に広がる地域をさします。
明治以前は真和志、町端(のちの池端)、山川、大鈍かわ、与那覇堂、立岸、金城、内金城、寒水川(のちの寒川)の8村からなる地域でしたが、そのうち大鈍かわ村、与那覇堂村、立岸村は山川村に、内金城村は金城村にいずれも明治13年に合併され、最終的に5つの村になりました。これらは現在の真和志町、池端町、山川町、寒川町、金城町にあたります。
かつて首里には「町端マチ」「赤田マチ」「汀志良次マチ」「平良マチ」とよばれた四つのマチ(市場)があり、なかでも町端と真和志に広がる「町端マチ」は「首里マチ」とも呼ばれ大変な賑わいをみせ、首里地域の総合市場としての役割も果たしていました。
町端村は1921年、近くの龍潭(池)にちなんで池端村に改められました。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
真和志之平等には「真壁殿内(マカンドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「真壁大阿母志良礼(マカンオオアムシラレ)」がこの区域を管轄していました。
真和志之平等(マージヌフィラ)
真和志之平等は、首里城の南方から西方へかけて斜面地を扇状に広がる地域をさします。
明治以前は真和志、町端(のちの池端)、山川、大鈍かわ、与那覇堂、立岸、金城、内金城、寒水川(のちの寒川)の8村からなる地域でしたが、そのうち大鈍かわ村、与那覇堂村、立岸村は山川村に、内金城村は金城村にいずれも明治13年に合併され、最終的に5つの村になりました。これらは現在の真和志町、池端町、山川町、寒川町、金城町にあたります。
かつて首里には「町端マチ」「赤田マチ」「汀志良次マチ」「平良マチ」とよばれた四つのマチ(市場)があり、なかでも町端と真和志に広がる「町端マチ」は「首里マチ」とも呼ばれ大変な賑わいをみせ、首里地域の総合市場としての役割も果たしていました。
町端村は1921年、近くの龍潭(池)にちなんで池端村に改められました。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
真和志之平等には「真壁殿内(マカンドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「真壁大阿母志良礼(マカンオオアムシラレ)」がこの区域を管轄していました。
西(北)之平等(ニシヌフィラ)
西之平等は漢字で「西」と表していますが「ニシ」とは方言で「北」のことを意味します。
つまり、西之平等はもともと首里地区内における「北」の地域を示しています。
古くは、王府が直接治める西原間切(まぎり:今の西原町)を含む広い区域でしたが、そのうち首里台地の上の区域だけを西之平等と呼ぶようになりました。
西之平等には、汀志良次村(ティシラジムラ)、赤平村(アカヒラムラ)、上儀保村(ウイジブムラ)、下儀保村(シムジブムラ)、久場川村(クバガームラ)の5つの村がありました。
これらは現在の首里汀良町、首里赤平町、首里儀保町、首里久場川町となっています。
西森(にしむい)や虎瀬山(とらせやま)などの小高い丘の連なりは、首里のまちの北側を守る、縁起のよい地形とされていました。
その麓に広がっていたのが西之平等で、聞得大君御殿(チフィジンウドゥン)や久場川の御殿(ウドゥン)、平等所(ヒラジョ)など王府の施設だけでなく、蔡温(さいおん)などの素晴らしい政治家や「組踊」の創始者である玉城朝薫の屋敷など、御殿(ウドゥン)・殿内(トゥンチ)と呼ばれる身分の高い士族の屋敷がたくさん集まっていました。
また、西之平等には平良(ティーラ)マチや汀志良次(ティシラジ)マチなどの大きな市場があり、遠方からもたくさんの人々が訪れ、生活に必要な品々が盛んに取引されるなど、大変賑やかなところだったそうです。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
西之平等には「儀保殿内(ジーブドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「儀保大阿母志良礼(ジーブオオアムシラレ)」がこの区域一帯を管轄していました。
西(北)之平等(ニシヌフィラ)
西之平等は漢字で「西」と表していますが「ニシ」とは方言で「北」のことを意味します。
つまり、西之平等はもともと首里地区内における「北」の地域を示しています。
古くは、王府が直接治める西原間切(まぎり:今の西原町)を含む広い区域でしたが、そのうち首里台地の上の区域だけを西之平等と呼ぶようになりました。
西之平等には、汀志良次村(ティシラジムラ)、赤平村(アカヒラムラ)、上儀保村(ウイジブムラ)、下儀保村(シムジブムラ)、久場川村(クバガームラ)の5つの村がありました。
これらは現在の首里汀良町、首里赤平町、首里儀保町、首里久場川町となっています。
西森(にしむい)や虎瀬山(とらせやま)などの小高い丘の連なりは、首里のまちの北側を守る、縁起のよい地形とされていました。
その麓に広がっていたのが西之平等で、聞得大君御殿(チフィジンウドゥン)や久場川の御殿(ウドゥン)、平等所(ヒラジョ)など王府の施設だけでなく、蔡温(さいおん)などの素晴らしい政治家や「組踊」の創始者である玉城朝薫の屋敷など、御殿(ウドゥン)・殿内(トゥンチ)と呼ばれる身分の高い士族の屋敷がたくさん集まっていました。
また、西之平等には平良(ティーラ)マチや汀志良次(ティシラジ)マチなどの大きな市場があり、遠方からもたくさんの人々が訪れ、生活に必要な品々が盛んに取引されるなど、大変賑やかなところだったそうです。
王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。
西之平等には「儀保殿内(ジーブドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「儀保大阿母志良礼(ジーブオオアムシラレ)」がこの区域一帯を管轄していました。
末吉公園地区
王府の歴史書『中山世譜』によると、17世紀後半には本島全域にあった35間切(現在の村)の体制が整ったことが記されており、この頃に琉球の地方行政区画も成立したと考えられています。
王城のあった首里や城下町までの行政区画が整っている様子は、1700年初頭に描かれたとされる「首里古地図」から伺い知ることができます。
首里城を中心に三平等(ミフィラ)が広がっていきます。
三平等の周辺には首里城から北西の丘に「末吉宮(スエヨシグウ)」、東南方の最も高い場所に「弁ケ嶽(ベンガダケ)」といった琉球王府の信仰でも重要な祈りの場所が配置されています。
こうした場所には、現在も手付かずの自然がそのままの姿で残されています。
まるで、王城のある首里の町を静かに見守っているかのようです。
末吉公園地区
王府の歴史書『中山世譜』によると、17世紀後半には本島全域にあった35間切(現在の村)の体制が整ったことが記されており、この頃に琉球の地方行政区画も成立したと考えられています。
王城のあった首里や城下町までの行政区画が整っている様子は、1700年初頭に描かれたとされる「首里古地図」から伺い知ることができます。
首里城を中心に三平等(ミフィラ)が広がっていきます。
三平等の周辺には首里城から北西の丘に「末吉宮(スエヨシグウ)」、東南方の最も高い場所に「弁ケ嶽(ベンガダケ)」といった琉球王府の信仰でも重要な祈りの場所が配置されています。
こうした場所には、現在も手付かずの自然がそのままの姿で残されています。
まるで、王城のある首里の町を静かに見守っているかのようです。