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西(北)之平等(ニシヌフィラ)

西之平等:画像

西之平等は漢字で「西」と表していますが「ニシ」とは方言で「北」のことを意味します。
つまり、西之平等はもともと首里地区内における「北」の地域を示しています。

古くは、王府が直接治める西原間切(まぎり:今の西原町)を含む広い区域でしたが、そのうち首里台地の上の区域だけを西之平等と呼ぶようになりました。

西之平等には、汀志良次村(ティシラジムラ)、赤平村(アカヒラムラ)、上儀保村(ウイジブムラ)、下儀保村(シムジブムラ)、久場川村(クバガームラ)の5つの村がありました。
これらは現在の首里汀良町、首里赤平町、首里儀保町、首里久場川町となっています。

西森(にしむい)や虎瀬山(とらせやま)などの小高い丘の連なりは、首里のまちの北側を守る、縁起のよい地形とされていました。

その麓に広がっていたのが西之平等で、聞得大君御殿(チフィジンウドゥン)や久場川の御殿(ウドゥン)、平等所(ヒラジョ)など王府の施設だけでなく、蔡温(さいおん)などの素晴らしい政治家や「組踊」の創始者である玉城朝薫の屋敷など、御殿(ウドゥン)・殿内(トゥンチ)と呼ばれる身分の高い士族の屋敷がたくさん集まっていました。

また、西之平等には平良(ティーラ)マチや汀志良次(ティシラジ)マチなどの大きな市場があり、遠方からもたくさんの人々が訪れ、生活に必要な品々が盛んに取引されるなど、大変賑やかなところだったそうです。

王国時代の首里は、三平等(ミフィラ)とよばれる三つの行政区画に分けられましたが、これと同じように琉球の神女組織も三つの地域に分けられていました。

西之平等には「儀保殿内(ジーブドゥンチ)」があり、高級女神官のひとり「儀保大阿母志良礼(ジーブオオアムシラレ)」がこの区域一帯を管轄していました。

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