琉球王国の第二尚氏王統の初代国王である「尚円王(しょうえんおう)」は、1470年に即位しました。その即位555年を記念して、第二尚氏王統以前や、第二尚氏王統時代の歴史や文化について紹介します。

琉球王国のはじまり~第一尚氏時代(だいいちしょうしじだい)
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は1429年に誕生し、1879年までの450年間続いた王制の国です。
琉球諸島(りゅうきゅうしょとう)は、北は奄美諸島(あまみしょとう)から南は八重山列島(やえやまれっとう)まで広がっていました。先史時代を経て、12世紀頃から「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、尚思紹・尚巴志(しょうししょう・しょうはし)親子が1406年に中山(ちゅうざん)の拠点であった浦添城(うらそえぐすく)を攻め権力を奪い、1416年には北山(ほくざん)の拠点であった今帰仁城(なきじんぐすく)を攻め、1429年に南山(なんざん)の島尻大里城(しまじりおおざとぐすく)を滅ぼし三山を統一し、琉球王国が誕生しました。初代国王は尚思紹(しょうししょう)、続く第二代に尚巴志(しょうはし)が就き、第七代尚徳(しょうとく)までの64年間を第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)とよんでいます。
尚巴志(しょうはし)は首里城の内郭及び外苑の整備に力を入れ、王城としての形を整えていきました。また琉球は国家的な一体化を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との活発な外交・貿易を推進し海洋王国へと発展しました。
首里城(しゅりじょう)は国王とその家族が居住する「王宮」であり、王国統治の行政機関「首里王府(しゅりおうふ)」の本部でした。また国家的な祭祀儀礼を行う場でもありました。
龍潭(りゅうたん)
首里城の北西にある龍潭(りゅうたん)は人口の池で、この付近に建てられた石碑「安国山樹華木記碑(あんこくざんじゅかぼくのきひ)(沖縄県立博物館・美術館所蔵)によると1427年に整備されたとあり、「安国山(あんこくざん)に龍潭(りゅうたん)を堀り、香りのする木や花を植え、万人が利用できるようにして太平の世のシンボルとして永遠の記念とした」と記されています。
万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)(レプリカ/首里城公園 供屋(ともや))
第六代国王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、仏教の布教に熱心であり、国の安泰(あんたい)を願い、たくさんの鐘を造らせました。その一つが「万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)」と呼ばれる「旧首里城正殿鐘(きゅうしゅりじょうせいでんしょう)」(原資料:沖縄県立博物館・美術館所蔵)です。鐘には「琉球国(りゅうきゅうこく)は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」という主旨の銘文が刻まれています。
金丸から尚円王へ
初代尚円王御後絵(しょだいしょうえんおうおごえ)
鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)撮影
沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館(おきなわけんりつげいじゅつだいがくふぞくとしょ・げいじゅつしりょうかん)所蔵
尚円(しょうえん)は1415年、伊是名島(いぜなじま)で生まれました。童名(わらびな)は思徳金(うみとくがね)といい、いい、俗称で「金丸(かねまる)」と呼ばれています。百姓の子であった金丸は、自らも農業を営んでいました。あるとき、ほかの田は干ばつの被害にあっているのに、金丸の田には水が満ちており、村人から水を盗んだのでは「ないかと疑いをかけられてしまいます。そのため村にいられなくなり、妻と弟(尚宣威(しょうせんい))とともに国頭(くにがみ)へ移りました。しかしそこでも長くはいられず、1441年首里へ上り、第五代尚金福王(しょうきんぷくおう)の弟、越来王子(ごえくおうじ)(のちの国王・尚泰久(しょうたいきゅう))に仕えます。1454年には西原間切内間領主(にしはらまぎりうちまりょうしゅ)に任命され、1459年には「御物城御鎖之側(おものぐすくうさすのそば)」の職に就任しました。しかし1460年に尚泰久王(しょうたいきゅうおう)が逝去(せいきょ)すると尚徳王(しょうとくおう)の治世になり、政策が合わず対立した金丸(かなまる)は、1468年に役職を退き内間へ引きこもりました。
1469年、尚徳王(しょうとくおう)が亡くなると、尚徳の世子(せいし:王太子(おうたいし))が継ぐことに反発した勢力によってクーデターが起こり、尚徳の子どもや母、高官たちは首里城を追われました。さらに内間で暮らす金丸のもとに群臣たちが訪れ王位に就くことを乞われ、それを受け入れたと伝わっています。
金丸(かなまる)はそれまでの中国皇帝との関係にも配慮し、尚円(しょうえん)と名乗りました。琉球王国の歴史上、それ以前を第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)、尚円(しょうえん)以降を第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)と呼んでいます。
1471年には、蔡璟(さいえい)ら中国に派遣して、尚円を冊封(さっぷう:国王に任命)することを要請し、翌1472年に冊封正使官栄(さっぷうしかんえい)らが来琉し、冊封(さっぷう)が行われました。
第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)
第二尚氏王統は、尚円(しょうえん)から数えて第十九代の尚泰(しょうたい)まで、約400年間続きました。尚円(しょうえん)の息子である、第三代の尚真王(しょうしんおう)の時代に、琉球王国の黄金時代を築きます。
第七代尚寧王(しょうねいおう)の時代、1609年に薩摩藩(さつまはん)が3,000名の軍勢で琉球を攻め、首里城を占拠しました。これ以降、中国と冊封・朝貢関係(さっぽう・ちょうこうかんけい)という当時の東アジアの国際秩序を維持しながら、薩摩藩(さつまはん)や徳川幕府(とくがわばくふ)の従属国となるという微妙な国際関係の中で存続していきました。
江戸幕府(えどばくふ)が倒れ明治政府に代わると、その影響は琉球にも及び、1879年に明治政府(めいじせいふ)によって首里城へ軍隊が派遣され、第十九代尚泰王(しょうたいおう)が首里城を出て、琉球王国は終焉し、沖縄県へとかわりました。
円覚寺(えんかくじ)
首里城の北側に位置する円覚寺(えんかくじ)は、1494年に尚真王(しょうしんおう)が創建した臨済宗(りんざいしゅう)の寺院で、第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)の菩提寺(ぼだいじ)でした。戦前には国宝に指定されていましたが、1945年の沖縄戦により破壊されました。戦後総門(そうもん)は復元され、放生橋(ほうじょうばし)と放生池(ほうじょういけ)は修理されています。
現在、三門(さんもん)の復元が進められています。首里城(しゅりじょう)の奉神門(ほうしんもん)をくぐった先にある北側見学通路から円覚寺(えんかくじ)の様子を見ることができます。
玉陵(たまうどぅん)
尚円王(しょうえんおう)の息子・尚真(しょうしん)によって、亡き父尚円(しょうえん)を祀るため、1501年に創建されました。第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)の歴代国王とその家族が祀られています。沖縄戦によって損壊しましたが、1977年に修復されました。東室、中室、西室と三つの墓室があり、外庭と中庭が石垣によって区分され、場を清めるための珊瑚砂(さんごすな)が敷かれています。
琉球王国としても2000年には世界遺産の1つに登録されており、2018年には、沖縄で建造物として初めての国宝に指定されています。
画像:(株)ライトスタッフ 所蔵/首里城デジタルミュージアム
第二尚氏王統
1
尚円(しょうえん)【1415~1476】1470年即位
金丸(かなまる)ともいう。
伊是名島(いぜなじま)の百姓であった。
2
尚宣威(しょうせんい)【1430~1477】1477年即位
尚円(しょうえん)の弟。
みずから退位する。
3
尚真(しょうしん)【1465~1526】1477年即位
尚円(しょうえん)の長男。
50年間も王位にあり、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)の黄金時代を築く。首里城北側の外郭を整備する。
4
尚清(しょうせい)【1497~1555】1527年即位
尚真(しょうしん)の五男。
首里城の外郭を整備する。
5
尚元(しょうげん)【1528~1572】1556年即位
尚清(しょうせい)の次男。
みずから軍を率い、奄美(あまみ)に遠征する。
6
尚永(しょうえい)【1559~1588】1573年即位
尚元(しょうげん)の次男。
首里門(しゅりもん)に「守礼之邦(しゅれいのくに)」の扁額を掲げる。
7
尚寧(しょうねい)【1564~1620】1589年即位
王家の一つである浦添家(うらそえけ)から王位に就く。
薩摩軍(さつまぐん)の侵攻により、鹿児島・江戸に連行される。
8
尚豊(しょうほう)【1590~1640】1621年即位
尚元(しょうげん)の孫。
薩摩(さつま)侵攻後の苦難に対処。
9
尚賢(しょうけん)【1625~1647】1641年即位
尚豊(しょうほう)の三男。
治世中に、中国で王朝が明(みん)から清(しん)に交代する。
10
尚質(しょうしつ)【1629~1668】1648年即位
尚豊(しょうほう)の四男。
1660年、失火により首里城が焼失する。
11
尚貞(しょうてい)【1645~1709】1669年即位
尚質(しょうしつ)の長男。
王国改革事業が推進される。
12
尚益(しょうえき)【1678~1712】1710年即位
尚貞(しょうてい)の王子・尚純(しょうじゅん)の長男。
在位3年で死去。
13
尚敬(しょうけい)【1700~1751】1713年即位
尚益(しょうえき)の長男。
王国の整備に努力。琉球文化が華開く。
14
尚穆(しょうぼく)【1739~1794】1752年即位
尚敬(しょうけい)の長男。
1768年に正殿の修理を実施。
15
尚温(しょうおん)【1784~1802】1795年即位
尚穆(しょうぼく)の孫。
琉球の最高学府である、国学を創建する。
16
尚成(しょうせい)【1800~1803】1803年即位
尚温(しょうおん)の子。
3歳で即位するも、翌年死去。
17
尚灝(しょうこう)【1787~1834】1804年即位
尚温(しょうおん)の弟。
精神障害に陥り、尚育(しょういく)が補佐した。治世中にイギリス艦隊2隻が来航した。
18
尚育(しょういく)【1813~1847】1835年即位
尚灝(しょうこう)の長男。
治世中イギリスから宣教師が訪れ、布教活動を行った。
19
尚泰(しょうたい)【1843~1901】1848年即位
尚育(しょういく)の子。
最後の冊封(さっぷう)を受ける。1872年、日本政府により琉球藩主(りゅうきゅうはんしゅ)となる。1879年、命(めい)により東京へ移住し、侯爵(こうしゃく)になる。
伊是名島の祭祀儀礼(いぜなじまのさいしぎれい)
公事清明祭(クージシーミー)
公事清明祭(クージシーミー)は伊是名村(いぜなそん)にある玉御殿(たまうどぅん)で執り行われる伝統行事です。
現在沖縄県内で行われている祖先供養の行事、清明祭の風習は『球陽(きゅうよう)』によると1768年に玉陵(たまうどぅん)で始まったとされています。中国の影響を受けて王府の年中行事の一つとして始まり、首里や那覇の士族が取り入れ、次第に地方へ広まっていきました。
一方王府は1870年に首里の玉陵(たまうどぅん)で行っていた清明祭を尚円(しょうえん)の出身地である伊是名島(いぜなじま)でも執り行うよう、尚円王(しょうえんおう)と血縁関係にある四殿内(ユトゥヌチ/銘苅(めかる)家、名嘉(なか)家、玉城(たまぐすく)家、伊礼(いれい)家)に指示しました。首里以外で行われる王府関係の清明祭では伊是名島が唯一でした。これが伊是名島の「公事清明祭(クージシーミー)」の始まりで、現在は伊是名村が主催しています。
沖縄北部のウンガミ 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 ※
沖縄本島北部とその周辺離島には「ウンガミ(ウンジャミ、ウンザミ、ウンギャミ)」と呼ばれる海の神を祀る行事があり、国頭村(くにがみそん)、大宜味村(おおぎみそん)、名護市(なごし)、今帰仁村(なきじんそん)、古宇利島(こうりじま)、伊是名島(いぜなじま)、伊平屋島(いへやじま)に伝承されています。旧暦7月の亥の日を中心に数日間行われます。海の神を迎えた後は神の祝福を受けるため、猪狩り、網漁などを模倣した儀礼が行われます。
※記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
民俗文化財は「国民の生活の推移の理解のために欠くことのできないもの」とされており、有形と無形のものがあります。有形民俗文化財は人々の生活の中で伝統的に使われてきたもので、無形民俗文化財は地域の祭祀や行事など、人々の生活文化や地域文化の土台となるものです。これらにはその土地特有の文化を作り上げてきた背景がありますが、社会の発展や時代の流れに伴い、その姿は変化していきます。しかし、我々の生活の歴史を考えるうえで、また伝統的な生活を伝える貴重なものであり、保存・継承されていく必要があります。
祭祀道具に関する美術工芸品(さいしどうぐにかんするびじゅつこうげいひん)
第二尚氏(だいにしょうし)を打ち立てた尚円王(しょうえんおう)の出身地、伊是名島には伊是名玉御殿(いぜなたまうどぅん)の祭祀に関わる道具が残されています。特に公事清明祭(クージシーミー)の道具は貴重な資料でもありながら、近年まで実際の祭祀で使用されてきました。
沖縄美ら島財団では同型の関連資料を所蔵しており、中でも特徴的なものを紹介します。
御玉貫(うたますき)
一般財団法人沖縄美ら島財団 所蔵
王府や御殿(うどぅん)での祭事などに酒器として用いられた道具。模様に尚家(しょうけ)の紋章である三巴紋(みつともえもん)を使用している。錫製徳利(すずせいとっくり)の表面をガラス玉で編んだものをかぶせている。御玉貫(うたますき)は、本資料以外には国王の末裔である尚家、伊是名島の銘苅家(めかるけ)・名嘉家(なかけ)、沖縄県立博物館・美術館、浦添市美術館などに現存している。現存資料がわずかしかない貴重な琉球の祭祀道具である。
朱漆巴紋牡丹沈金足付盆(しゅうるしともえもんぼたんちんきんあしつきぼん)
一般財団法人沖縄美ら島財団 所蔵
王家の紋章である巴紋(ともえもん)とボタンを沈金(ちんきん)で描いている。琉球国王であった尚家(しょうけ)関係資料にも類似の足付盆(あしつきぼん)が残っている。刻まれた沈金(ちんきん)の線は沈金で太陽と鳳凰(ほうおう)を描いた丸櫃(まるびつ)より深く太く、18世紀以降の琉球の沈金技法(ちんきんぎほう)の特徴であると思われる。
朱漆三ツ巴紋盆(しゅうるしみつともえもんぼん)
一般財団法人沖縄美ら島財団 所蔵
盆の中央に大きく尚王家(しょうおうけ)の紋章である三巴紋(みつともえもん)を描いている。浦添市美術館所蔵の同じデザインのお盆の底に「御内原御用(おうちばらごよう)」と書かれている漆器があり、本資料も首里城正殿(しゅりじょうせいでん)後方の御内原(おうちばら)で使用されていたものと思われる。御内原(おうちばら)とは、国王や王妃の生活空間で、女官(にょかん)だけが入ることができ、男性が入れない大奥のような空間であった。
※会期中、ガイダンスホールにて「初代尚円王御後絵(しょだいしょうえんおうおごえ)」の高精細デジタル画像(原寸大)を展示しています。
初代尚円王御後絵(しょだいしょうえんおうおごえ)
撮影:鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)
所蔵:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館
御後絵(おごえ)は、琉球国王が亡くなったあとに描かれた肖像画です。長らく沖縄戦によって消失したと考えられており、沖縄文化研究の第一人者であった鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)が戦前に撮影したモノクロ写真10点の御後絵(おごえ)がどのようなものなのかを伝える唯一の貴重な資料でした。しかしながら、戦後80年近く経って現物の存在が確認され、2024年にアメリカから沖縄県へ御後絵(おごえ)が4点返還されました。
鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)が撮影した御後絵(おごえ)を含む、戦前に撮影された首里城関連や文化財等の「琉球芸術調査写真(りゅうきゅうげいじゅつちょうさしゃしん)」は、重要文化財に指定されており、沖縄県立芸術大学が収蔵しています。戦前の消失した文化財の記録としても重要なものであり、平成や令和の首里城復元に大いに役立てられています。
2024年には沖縄県立芸術大学と東京文化財研究所との共同研究により、ガラス原板から高精細なデジタル画像化を実現しています。
琉球王国時代、御後絵(おごえ)は円覚寺(えんかくじ)にありました。元々円覚寺の仏殿の壁面に描かれていましたが、たびたび円覚寺で火災があったため、王府絵師・
山口宗季(やまぐちそうき)よって掛軸(かけじく)に改装されました。
【問い合わせ先】 首里城公園管理センター 首里城事業課
TEL:098-886-2279 / FAX:098-886-2022 ※取材申し込みの際は事前にご連絡をお願い申し上げます。