首里城及び琉球王国の概要

首里城及び琉球王国の概要

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首里城は、琉球王国で1469年から1879年まで続いた第二尚氏王朝時代に建てられた中で最大規模を誇るモニュメント的建築物です。この場所にはそれまでも城があったと考えられていますが、その規模と重要性が大きく拡大したのは第二尚氏の統治下のことでした。

沖縄は激動の歴史を歩んできました。中国、日本本土、そして朝鮮半島という、琉球王国より強大な勢力に囲まれて、それらからの影響をどのように受け止めるべきか歴代の王が模索する中、繁栄と衰退を繰り返してきたのです。琉球は、14世紀の三山時代に、多くの独立した武将が率いる体制から、3つの国に分割された体制に移行しました。そして1429年には第一尚氏王朝のもとで統一された王国となりました。第一尚氏王朝の最後の王であった尚徳(1441–1469)が子孫なきままクーデターで殺されたことで、朝廷は尚円(1415–1476)を王に選出し、第二尚氏王朝を打ち立てました。第二尚氏王朝の3代目の王となる尚真(1465–1526)の統治のもと、琉球王国では長い平和と繁栄が続きました。尚真は文化活動を促進し、那覇の港のインフラを改善し、琉球王国の海外との交易を大幅に拡大しました。また尚真は、多くのモニュメント、寺院、邸宅、庭園、そして橋などの建築を指揮しました。その中で特筆すべきは首里城の拡張と美化です。

尚真の後継者はいずれも、尚真ほどの平和、繁栄、そして文化的成果を実現することはできませんでした。しかし首里城は、王朝の宮殿、そして琉球諸島の行政と文化の中心地であり続けました。沖縄が日本に併合された1879年まで、王族は首里城を居城とし続けました。王族が去ってからは、首里城は兵舎として、そして学校として使われ、1925年には神道の神社になりました。

グスクとは?

首里城のようなグスクは、12世紀から16世紀までの繁栄の時代のシンボルです。この時代に、琉球諸島は異なる国々に分かれていた状態から統一王朝に発展し、独立国として海外との交易を盛んに行いました。首里城に加えて、現在も沖縄に残る主な城跡には、今帰仁城、座喜味城、勝連城、そして中城があり、どれもまとめてユネスコの世界遺産に登録されています。首里城に関する史料は詳細に残されていますが、その他のグスクのほとんどに関してはほとんど歴史史料が残っておらず、建設や用途に関しては多くの謎が残っています。しかし明確なこととして、グスクには防衛とスピリチュアルな目的の両方があり、そこに軍事関連施設、居住施設、そして儀式用の施設が備えられていました。どの城壁も石灰岩で、オリジナルの木造構造物はほとんど、または全く残っていませんが、考古学や歴史学の研究によって、最重要の建築物の規模と地取り、そしてそこに暮らした人々の生活様式に関してはかなり解明されています。

日本の城も琉球の城も、防衛用の廓が何重にも配置され、最も高いところが最も安全になるように設計されています。しかし、琉球の城の城壁は、多くの場合波打って有機的な形態ですが、日本の城はより厳格な直線によって構成され、角は尖っています。さらに、琉球の城には、日本本土の城とは異なり、防衛用の複数階建ての木造の櫓はありませんでした。

首里城の構造

首里城は、最も高いところで海抜約130メートルの大きな丘の上に建設されました。周囲の地形をパノラマ的に見渡せること、そして淡水が湧いたことから、この場所は城の建築に適していました。首里城には当初、1つの主要な廓しかありませんでした。その外側に防衛用の廓が追加されたのは、16世紀中頃のことです。有機的な曲線を描く防衛用の城壁は、3メートルの厚さの琉球の石灰岩を6から15メートルの高さに隙間なく積み上げて作られています。琉球王国の最重要の儀式用、居住用、そして行政関連の建築物は、内側のゆったりとした段状の廓の中に配置されました。正殿もその1つです。これらの建築物は、東から西に走る軸に沿って作られた中庭群の周りに群をなすように建てられました。

最も栄えた時代には、首里城には13の門がありました。そのうち4つの門は、防衛用の城壁に切り込みを入れて大きな石のアーチを設置したもので、これは間違いなく中国の様式によるものです。他の門では、日本風の特徴的な設計、つまり城壁に入れた切り込み全体の幅の木造の門番小屋を作るという設計になっていますが、門番小屋の屋根は中国の様式になっています。門楼やその他最も重要だった建築物には、赤い漆が塗られました。首里城には、京の内と呼ばれる、儀式に用いられる神聖な木の生えた大きな区画があったことが特徴で、京の内にはいくつかの石壁に囲まれたエリアがあり、ここで祈りがささげられました。これらのエリアは、国の繁栄にとって重要であると考えられていました。そのようなエリアは、首里城の城壁の中に約10ヶ所設けられていました。

重要な文化の中心地

第二尚氏王朝の統治のもとで、首里城周辺の地域は繁栄し、国際色溢れる文化、行政、そして金融の中心地となり、また教養のある王朝の高官や貴族がコミュニティーを形成するようになりました。首里城周辺の地域では、大規模な水関連の見所や橋などを取り入れて、巧みに景観整備が行われました。近くには、重要な寺院やその他の宗教関連施設、それに豪華な宮殿や貴族の大邸宅が建設されました。海外との交易、教育、芸術、および工芸品の生産を担当する重要な施設も、首里城近くに作られました。

琉球王国は中国および日本と緊密な関係にあり、中国と日本からの使節団は外交の重要な一環として首里城を訪れました。そのため、首里城は海外からの文化の影響を真っ先に受ける中心地となり、様々な影響が独特の形で組み合わされて進化しました。それは、首里城の設計や技術的要素にも反映されています。全体的に、首里城の儀式用の空間は、北京の紫禁城をモデルに設計されました。そのため、中国の宮殿の建築様式から要素やモチーフが借用されています。日本の設計原理に基づいて建設された重要な建築物もあり、また朝鮮半島に前例を見いだすことができる要素も見られます。しかし、迫力のある要塞の城壁や廓の機能的な地取りは、琉球独特のものです。

繰り返される火災と再建

首里城は5回焼失しており、繰り返し再建されてきました。1453年、1660年、そして1709年に焼失し、1945年5月の沖縄戦では艦砲射撃で壊滅的被害を受けました。いくつかの重要な建築物、石垣、そして門の精緻な復元作業は1992年に完了しましたが、2019年10月の大規模な火災で正殿やその他いくつかの建築物が破壊されました。現在それらの建築物を再建する努力が行われています。

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