首里城は、琉球王国で1469年から1879年まで続いた第二尚氏王朝時代に建てられた中で最大規模を誇るモニュメント的建築物です。この場所にはそれまでも城があったと考えられていますが、その規模と重要性が大きく拡大したのは第二尚氏の統治下のことでした。
>>全文
首里城につながる大通りは、綾門大道と呼ばれていました。中山門から守礼門まで約500メートルにわたって東から西に通っており、一部の歴史家は「琉球の黄金の道」と呼んでいます。
>>全文
守礼門は、儀式用の中国様式の多彩色の木造の門で、首里城のすぐ近くに立っています。尚清王の命令で1527年から1555年の間に建てられ、沖縄で最も有名で広く知られたシンボルの1つとなっています。
>>全文
正殿は首里城の最も主要な宮殿でした。広い儀式用の御庭の中心的な建築物で、中国と日本からの使節団を迎えるのに使われた大きな格式高い建築物を脇に従えて、これらの建築物とアンサンブルをなしていました。
>>全文
御内原は、主には王族の日々の生活、例えば食事、睡眠、教育、文化訓練、そして娯楽を支えるための居住スペースとして設計されました。女官もここに住み、王族以外の男性が立ち入ることはできませんでした。
>>全文
東のアザナは、首里城の内側の城壁の東の端に建てられた櫓です。首里城で最も標高が高い地点で、海抜約140メートルあります。
>>全文
銭蔵は、首里城の城郭の通用口である久慶門近くの内側と外側の城壁に囲まれたエリアに立っていたいくつもの建築物の1つでした。
>>全文
円覚寺は首里城の北の城壁のすぐ外に位置した仏教寺院で、天徳山と呼ばれることもあります。1492年に尚真王によって第二尚氏王統の菩提寺として創建され、琉球王国における仏教の禅宗の臨済宗の総本山となりました。
>>全文
円鑑池は、首里城の北の城壁のすぐ外側に位置する、石垣で囲まれたため池です。1502年に作られたこの池は、首里城の淡水源から重力によって水を集めて、その下の龍潭に水を運ぶためのシステムの一部となっています。
>>全文
中国出身の琉球王朝の高官だった懐機は、1427年に尚巴志王から龍潭という大きな池を作るように命じられました。龍潭は、首里城が立つ丘の麓にある地形が平坦な場所に位置しており、この場所は主に中国からの使節団をもてなすために使われていました。
>>全文
第32軍司令部壕は、第2次世界大戦中に大日本帝国陸軍によってアメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために首里城の地下に作られた壕群です。工事が始まったのは1944年12月で、1945年3月に沖縄戦が始まる直前まで続きました。司令部は、5月末に日本軍が島の南部に後退するまで、約1ヶ月間使われました。
>>全文
真珠道は、守礼門の近くから始まる、歴史ある重要な通りです。この名前は、その外観に由来しています。琉球の石灰岩のブロックを隙間なく敷き詰めて丁寧に舗装された表面は、1522年に作られた当時は白く輝いていました。
>>全文
中城御殿は、琉球の王世子のための宮殿として建てられた大きな邸宅でした。大規模で質の高い建築、そしてその堂々たる姿を誇る中城御殿は、様々な要素を融合させつつ独自性を象徴する琉球建築の傑出した作例でした。
>>全文
© Shurijo Castle Park All Rights Reserved.