守礼門

守礼門

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守礼門は、儀式用の中国様式の多彩色の木造の門で、首里城のすぐ近くに立っています。尚清王の命令で1527年から1555年の間に建てられ、沖縄で最も有名で広く知られたシンボルの1つとなっています。元々、それより100年前に約500メートル西に建てられていた中山門が首里城の主な儀式用の門となっており、王朝の高官は中山門で使節団やその他の重要な客人を迎えていました。しかし、首里城から距離があることが不便になったので、新たに首里城に近いところに門を作る必要が出てきました。

守礼門という名前は、明の皇帝が1579年に「琉球は守礼の邦と称するに足りる」と言ったことに由来しています。それを受けて、漆塗りの板に「守禮之邦」との言葉が刻まれ、門に掲げられました。これは、琉球は儒教の原則を守るとの宣言であり、また一般の人々にそうするよう命じる勧告でもありました。守礼門には時に応じて別の板が掲げられることもありましたが、守礼門は守礼という儒教の美徳に最も強く結びついています。

設計に見られる海外からの影響

中山門と同じく、守礼門は中国の「櫓」付きの牌坊という屋根付きの門の様式を基にしています。赤い瓦が葺かれた門と同じ幅の1段目の屋根中央に2段目の屋根が載っています。琉球の全てのモニュメント的建造物同様に、この設計は基本的な中国様式に様々な様式の影響を取り入れた折衷様式です。彫刻が施された石板が門を基から支えるという異例の構造で、これは台風対策であった可能性があります。守礼門は、高さ約7メートル、幅約8メートルと、縦方向より横方向に長く、また一切の扉がないことから、歓迎と祝賀の空気を醸し出し、防衛用であるとの雰囲気はほとんどありません。

沖縄文化のアイデンティティーのシンボル

守礼門は琉球文化の有名なシンボルだったので、首里城を紹介する画像にはしばしば象徴的な建造物として登場します。ペリー提督とともに1853年から1854年にかけて琉球王国を訪れたアメリカ軍の技師や画家も、守礼門の記録を残しています。守礼門は1879年の琉球王国の廃止を生き延び、首里城が日本軍の兵舎、学校、そして神道の神社になってからもその入り口に立ち続けました。1933年には日本の国宝に指定されましたが、1945年の沖縄戦で破壊されました。沖縄における、そして文化における極めて大きな重要性に鑑み、首里で戦後真っ先に守礼門が再建されました。現在の守礼門は1958年に完成したものです。

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