首里城正殿・正殿遺構

首里城正殿・正殿遺構

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正殿跡

正殿は首里城の最も主要な宮殿でした。広い儀式用の御庭の中心的な建築物で、中国と日本からの使節団を迎えるのに使われた大きな格式高い建築物を脇に従えて、これらの建築物とアンサンブルをなしていました。正殿は琉球最大の木造建築でした。正殿は琉球王国時代には3回焼失しては再建されましたが、1945年の沖縄戦でも破壊されました。正殿と正殿に関連するいくつかの建造物は、1992年に慎重に復元されました。2019年10月の火災で、正殿や正殿につながる7棟の建築物はまたもや破壊されました。

配置と設計

正殿と御庭の全体の地取りは、北京の紫禁城を小さなスケールで再現するよう意図されていました。琉球のモニュメント的建築の通例に倣って、その具体的な設計は中国、日本、朝鮮半島、そしてその他のアジアの地域からの影響を固有の感性と融合させたものでした。全体の形態は、実際は3階建てとして機能しますが外観は2階建てに見えるという、中国の宮殿建築に基づいていました。日本建築から借用された、唐破風という曲線を描く大きな破風は、4本の柱に支えられて、中央玄関を風雨から守っていました。大部分は赤い漆塗りでしたが、鋳型を用いて作られた細かい多彩色の装飾も施され、中央の柱の周りには黄金の天龍が蜷局を巻いていました。正殿全体は琉球の石灰岩の台座で高床式となっており、台座には彫刻が施された石材のブラケットと細かい装飾が施された石材の欄干がついていました。最初期の正殿の屋根のこけら板は木製でしたが、17世紀末には灰色または黒の陶器の瓦に交換され、その後琉球様式の赤い素焼きの瓦に白い装飾的な漆喰が目立つ屋根に変更されました。

独特の龍柱

中央の石灰岩の階段は、18世紀中頃に扇型に拡張されました。その正面には、龍をかたどった約3メートルの高さの石材の柱が1対あり、奥にはもう1対小ぶりのものがありました。これによって、擬似的な遠近法の効果が醸し出され、奥行きが増したような錯覚が生まれました。これは、琉球独自の発明であると考えられています。龍のモチーフは、統治の正当性の象徴だったので、皇帝と王しか用いることができませんでした。龍のモチーフは正殿のあちこちで多く用いられました。例えば、屋根の大きな装飾、柱、天井、欄干などです。

用途と機能

正殿の1階は下庫理と呼ばれ、政治や儀式などに用いられました。下庫理には、御差床という高まった演壇があり、これは玉座として使われました。このエリアを囲む赤い漆塗りの柱と天井の梁には、金で描かれた龍と縁起のいい多彩色の雲の装飾が施されていました。大庫理と呼ばれた2階にも、王のための豪華な玉座があり、竜の装飾がなされていました。この空間は主には女性用でしたが、王族の男性はここで行われる王家や最高位の女性が出席するプライベートな儀式や式典に参加することができました。3階は屋根裏部屋で、換気を助ける役目を担っていました。

古い礎跡

考古学的発掘調査によって、この場所に最初の正殿が建てられたのは14世紀末であることがわかりました。正殿はその後の数世紀で何度も焼失し、その都度同じ場所に再建されてきました。15世紀から17世紀にかけて設置された礎の痕跡によると、徐々に拡張されてきたこと、そして石の加工技術が徐々に洗練されてきたことがわかります。オリジナルの礎は荒削りで表面加工がされていませんでしたが、その後琉球の石灰岩を形を整えて隙間なく敷き詰めたものに変わり、中央の階段も徐々に大きくなって改良が重ねられました。1986年に再建に向けた計画が開始される中で、これらの考古学的遺構をそのままにして見える状態で残すことが決められました。復元された正殿は、オリジナルより68センチメートル高いコンクリートの基礎の上に建てられ、床をガラス張りにすることで古い礎を見える状態にしました。2019年末の正殿の焼失後、跡地を外から見える状態で保護するために大きな臨時のガラス張りが設営されました。このほど起きた火災は悲劇的な文化的喪失でしたが、これらの古の礎は首里城の正殿は常に焼失と再建を繰り返してきたという歴史を私たちに教えてくれるものです。
※正殿復元工事のため2022年5月より正殿遺構はご覧いただけません。ご了承ください。次回は2026年正殿完成時にご覧いただけます。

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