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中城御殿は、琉球の王世子のための宮殿として建てられた大きな邸宅でした。大規模で質の高い建築、そしてその堂々たる姿を誇る中城御殿は、様々な要素を融合させつつ独自性を象徴する琉球建築の傑出した作例でした。この名称は、王世子は伝統的に沖縄の中部にある中城村の統治が任されていたため、中城王子と呼ばれていたことに因むものです。この邸宅は元々、首里城にも程近い、幅広い儀式用の大通りの中山門近くに17世紀に建てられました。
中城御殿は、琉球王朝時代が終わる直前の1873年に、龍潭に面する広々としたところに移築されました。1879年に首里城が日本軍の施設になると、移築後の中城御殿は沖縄に残った王族の主たる住居になりました。中城御殿は何世紀もの歴史を有する邸宅や庭園に囲まれ、当時この地区には琉球の上流階級の学者や貴族が住んでいました。
配置と設計
首里城と同じく、中城御殿は琉球の慣習に従って区分けがされていました。一般の行政関連のエリアは南向きの正面門の近くで一般の人も立ち入ることができました。王世子とその家族、そして王朝の人々が暮らすプライベートエリアは奥にありました。最も奥深くにあったのは、御内原という女性のためのプライベートエリアでした。
中城御殿の建築の配置と設計は、日本と中国の設計法の要素を琉球古来の特徴と融合させたものです。中城御殿は、約20棟の高床式の木造建築で構成され、それぞれの棟は琉球様式の庭園や中庭の周囲に群をなすように配置され、屋根付きの廊下でつながっていました。さらなる区分けや空間の明確化のために、石垣が作られました。中城御殿の最も興味深い特徴の1つは、門や中庭が中心軸に沿って明確に並ぶという配置です。これは中国の宮殿の建築様式が由来となっていますが、中城御殿全体の地取りには中国に見られる厳格な対称性が見られません。建造物はより自由な配置で、これは日本の美意識や機能面の感性により近いものです。中城御殿の奥にある幅広い丘になったエリアには、中国様式の庭園がありました。
破壊と再建
中城御殿は、王族の子孫の住居として使われていましたが、1945年の沖縄戦で多くの王室の宝物や歴史史料とともに破壊されました。元々の建造物のうち、残ったのは井戸が1つ、そして周辺の大きな石垣だけでした。幸運なことに、中城御殿に関しては多くの信頼できる史料や写真が残りました。この場所には1966年に沖縄県立博物館・美術館が建てられましたが、2008年に解体され、この場所で重要な発掘作業ができるようになりました。
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