首里城2026年マチカンティー

正殿と後宮の暮らし ─ (前編)

首里城正殿の二階部分、そして正殿裏のエリア(御内原とよばれます)は、特別な場所でした。王とその家族が暮らし、身の回りのお世話をする女官たちの世界。役人が進めるのは鈴引きと呼ばれる場所まで。彼らはここから先へと立ち入ることを制限されていました。今回は、「首里城の知られざる正殿と後宮の世界(前編)」として正殿の二階部分のお話です。

国王に相談がある時など、御内原に取り次いでもらうために、役人たちはこれを引いて鈴を鳴らした
国王に相談がある時など、御内原に取り次いでもらうために、役人たちはこれを引いて鈴を鳴らした

平成首里城には何度も行きました。大庫理とよばれる正殿二階。初めて首里城を訪れる友人は、入ったとたんに、「わぁ」という声を上げ、絢爛豪華な装飾に目を奪われたものです。一目で特別な空間であることを認識します。おそらく真ん中に装飾が施された玉座にまず目がいくでしょう。前回紹介した『百浦添御殿普請付御絵図幷御材木寸法記』では、床より約64センチメートルの高さがあったといいます。興味深いのは寺院でいうところの「須弥壇」に似ているところです。正面には龍が置かれ、厳密には須弥壇とは異なる部分もあるものの、擬宝珠など仏教の影響が見て取れます。須弥壇とは、通常ご本尊を設置する場所であり、寺院では須弥座ともいわれ、古代インドの宗教的世界観に通じます。須弥山という世界の中心にそびえるという高山があり、やがて中国・日本の仏教徒の間で信奉されるようになりました。1729年の重修工事の際、「国殿の宝座を改めて正中に設く」と記録がありますが、何しろ役人たちの出入りが禁じられたエリアであったこともあり、玉座の位置を含め不明の点も多いです。しかし、その仏教思想と琉球国王の権威としての玉座が具現化した空間ということはわかります。

さらに須弥壇下部の羽目板には、動物のリスと果物のブドウの装飾があります。よくよく考えると不思議な話ですね。なぜなら両者とも琉球には存在しておりません。このデザインには理由があります。リスは子沢山、ブドウはたくさん実をつけることから、豊穣を意味しています。子孫繁栄と豊穣、つまり国家繁栄ですね。これら吉祥文が、黒漆に沈金技法の唐草模様があしらわれた、須弥座下部にはめ込まれています。首里城が再建された時には、いち早く見に来たいところです。

<写真:正殿須弥壇の装飾(リス&ブドウ)>
<写真:正殿須弥壇の装飾(リス&ブドウ)>

玉座の後ろには三枚の扁額がありました。大庫理には多くの扁額がかけられていたようですが、平成首里城では①「中山世土」②「輯瑞球陽」③「永祚瀛壖」三枚の扁額がありました。それぞれ、①「琉球は中山の治める世が続きますように」②「琉球に目出度いものが集まってきますように」、③「琉球を末永く治めてください」と、清国の歴代皇帝、①四代康熙帝、②五代雍正帝、③六代乾隆帝からそれぞれ贈られた物でした。ところが、平成復元の頃、書かれた文字はわかっていましたが、どのような筆跡であったかわかっていませんでした。そこで復元チームは、それぞれの皇帝の自筆の書で残っている文字から割り出し、ないものは他の文字の“つくり”、“筆を運ぶクセ”から複合的に想定復元しました。復元チームの執念ともいえる労作ですね。

「中山世土」
「輯瑞球陽」
「永祚瀛壖」

玉座の向かいには、「唐玻豊」という小さな部屋があり、ここにも玉座が置いてありました。小部屋には引き戸がついていて、開けると眼下に御庭が広がっています。冬至の日やお正月の儀礼には、御庭に集まった家臣たちに、国王自らがお顔を見せるあいさつをしていました。現在の天皇陛下の正月一般参賀に近いイメージするとわかりやすいかもしれません。テダ(太陽)の象徴である国王が、お顔を見せることは特別な意味がありました。こうした行事はもちろん、日常生活はどのようなことがおこなわれていたのでしょうか。次回後編は、国王と王族、そして女官たちの生活迫ります。お楽しみに。

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