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王国時代の首里城火災を振り返り、歴史から未来へのヒントを探ろうとするコラムの後編です。首里城の正殿と御庭があった場所には、建物が建っています。中には柱となる木材がきれいにならんでいました。これほどのサイズの木材、そして必要な数を揃えるのは、簡単ではありません。それは我々が暮らす環境と未来に密接にかかわっていることを今回、あらためて感じました。
記録では西暦1709年のこと。「禁殿回禄ス」とあります(『球陽』巻九)。首里城正殿が火災に見舞われたということです(北殿・南殿も焼失)。しかも、発生したタイミングも悪く、尚益王が即位して、ちょうど一週間後の出来事でした。また、さらに、この年は台風の当たり年だったようで、各地に被害を出す一方で、干ばつも起きていました。犠牲者3,199人を数え、加えて治安も悪化していたことが記録に出てきます。そんな中、江戸では徳川家宣が六代将軍に就任。尚益王の即位の謝恩も兼ねて、使節団を江戸に送る必要に迫られていました。もちろん、これには莫大な費用がかかります。まさに国難ともいえる中、尚益王は、江戸への派遣を決めます。
翌年、江戸に向かった使節団の中には、あの玉城朝薫がいました。外交官としても期待されていました。なにしろ芸ができます。彼はこの時、江戸薩摩屋敷で「くまへおどり」という大和芸能を披露。さらに江戸城においては、将軍および大名列席のもとで、中国の芸能と三線を披露し、称賛されました。また、能や狂言といった日本の芸能を吸収する機会にも恵まれました。こうした経験を活かし、あの組踊(2010年ユネスコ無形文化遺産登録)の下地を作っていくことになったのでした。同年、のちの大政治家である蔡温が、留学先の中国より帰国します。儒学、地理(風水・環境学)、漢詩などに優れ、羽地朝秀(「世界遺産をつなぐもの」前編参照)の路線を引き継ぎ、琉球の立て直し、大改革を推進します。これだけでもすごいですが、学者であり教育者、江戸でもその名を知られた程順則、和文学に優れた平敷屋朝敏、琉球発の古語辞典「混効験集」を編纂した(1710年)識名盛命をもいます。この時代は、災害もありましたが、人材に溢れ、のちに琉球の第二黄金期ともいわれる文化興隆の時代の揺籃期でもありました。
ところが、首里城再建には問題がありました。木材の不足です。儀間真常による製糖技術の進化は、重大な環境問題も引き起こしていました。日本市場で琉球産の砂糖が人気となりますが、その製造過程で、煮詰めるための燃料(木材)を必要とします。運搬用の砂糖樽(木製)が必要になります。さらに木造の船も必要になります。蔡温は船の製造を制限し、王府監督のもと地域で山林を保護・育成する「杣山制度」を整えました。特に”やんばる”と呼ばれる地域は今の世界自然遺産に重なる場所です。 結局、薩摩から約2万本もの木材を提供されたこともあり、1712年再建、1715年までに赤瓦・唐破風の首里城が甦りました。この時代の首里城が、平成の首里城再建のモデルとなり、多くの資料が残されています(参照:第一話首里城を造った匠たち前編)。時代を経て、幾度かの改修工事で維持してきましたが、太平洋戦争で司令部となった首里城は、地形が変わるほど破壊されました。しかし、琉球の時代に残してくれた資料と、多くの 人々の応援・ご協力あっての奇跡の復活でした。
「見せる復興」を掲げる令和の首里城復元では、さらに新たな知見を加え、2026年の完成へむけて作業がすすめられています。沖縄県産の「オキナワウラジロガシ」という木材も使用されます。 時代を越えて、 世界中からの応援を受けて、甦る新しい首里城。見るのがマチカンティー(待ち遠しい)ですね。歴史を振り返ると、未来へつないでいく大切さがわかります。建物だけではなく、過去と現代、そして未来へとつなぐ人々の思い、つないでいく環境の大切さを教えてくれました。
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