無料区域
琉球時代の息吹を感じる空間
正殿周辺には、那覇市内を一望できる展望台「西のアザナ」などもあります。奉神門(ほうしんもん)では、毎朝の開門時に『御開門(うけーじょー)』が実施されています。
広福門 / 下之御庭 / 首里森御嶽 / 大龍柱補修展示室 / 系図座・用物座 / 西のアザナ / 京の内 / 右掖門 / 久慶門 / 美福門 / 継世門
「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
門前は城内でも眺めの良いところで、眼前にハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や、沖縄県立芸術大学が見える。東には弁財天堂(べざいてんどう)の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎瀬山(とらずやま)や弁ヶ嶽(べんがだけ)の丘の緑が遠望できる。
創建年は不明である。明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。
「下之御庭(しちゃぬうなー)」とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、正殿前で行われる様々な儀式の控え場であり、正殿の建築工事の際には資材置場等として使用された。現在は城内でのイベント等の際に利用されている。
城壁の手前にある礼拝所を「首里森御嶽(すいむいうたき)」という。「琉球開闢(かいびゃく)神話」によれば、神が造られた聖地であるとされている。また、城内にはここを含めて「十嶽(とたけ)」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったといわれる。
琉球最古の歌謡集『おもろさうし』にも「首里森御嶽」に関する詩歌が多数登場する。1997年(平成9)12月に復元された。
首里城正殿の正面にあった大龍柱。尾を胴体に巻き付けて直立する形は琉球独特と言える。平成の首里城復元では与那国島産の細粒砂岩が使われ、高さは約3.1メートル、重さは約1.5トン。火災の影響を受けながらも奇跡的に立っていたが、多くの損傷が確認された。補修作業のため台座から取り外し、仮設補修作業場へ移動して大龍柱の本格的な補修作業が行われた。被災後の大龍柱は多数ひび割れ、部分的に取れ落ちる恐れのある箇所もあったためドリルで穴をあけ、アンカーによるつなぎ止められ固定された。穴をあけた箇所には、削孔時に龍柱本体から出た粉と正殿基壇石高欄の破片をすりつぶした粉と、エポキシ樹脂という液状の接着剤を混ぜ合わせ、孔埋めを行ったため、補修箇所が目立たなくなっている。さらに石材の風化防止のため、表面を強化する薬剤を大龍柱表面に塗布した。補修された大龍柱は、新しい令和の大龍柱の見本として活用するまでの約2年間、下之御庭の補修作業場で公開している。
「下之御庭(しちゃぬうなー)」の西側にある建物は、「系図座(けいずざ)」と「用物座(ようもつざ)」という役所があった建物である。
「系図座」は士族の家系図を管理していた役所、「用物座」は場内で使用する物品、資材等の管理を行った役所である。
2000年に復元され、休憩所と情報案内所として使用されている。
現在は、休憩所と併設している首里城茶屋にて琉球王国のお菓子を楽しめる「呈茶サービス」(有料)を提供している。
首里城茶屋「呈茶サービス」の詳細はこちらからご確認ください。
標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台で、ここからは那覇の町や那覇港の様子、そして遠く水平線上に慶良間諸島などが展望できる。
別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。城外、城内を眺望するには最高の場所である。
「下之御庭」南側の石垣の向こう側は「京の内(きょうのうち)」という城内最大の信仰儀式の場である。
首里城発祥の地ともいわれ、琉球独自の信仰の最高位に位置する聞得大君(きこえおおきみ)や大アムシラレといった神女(しんじょ)たちが、ここで王家繁栄、航海安全、五穀豊穣(ごこくほうじょう)等を神に祈っていた。
「右掖門(うえきもん)」は眼下に見える歓会門(かんかいもん)、久慶門(きゅうけいもん)から淑順門(しゅくじゅんもん)へ直接通じている門で、往時は淑順門から御内原(おうちばら)へ入った。この門は歓会門から東にあり、ほぼ直線で約160メートルの石畳道が続いている。
別名「寄内御門(よすふぃちうじょう)」ともいい、創建は15世紀頃と伝えられる。沖縄戦で焼失したが、1992年(平成4)に櫓から下の城壁部が復元され、2000年(平成12)に櫓(やぐら)が復元された。
「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれている。国王が寺院を参詣(さんけい)したり、浦添から以北の地方へ行幸(ぎょこう)するとき等に使用した門であった。創建は1477~1526年【尚真王代(しょうしんおう)】といわれ、1983年(昭和58)に復元された。
順路の関係から現在は出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門である。
門の左手に「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水がある。またここから左手には先に見た「龍樋(りゅうひ)」がある。つまりこの辺りは城内に降った雨が地下に浸透し、再び湧水としてでてくる場所である。
内郭に建てられた門で「継世門(けいせいもん)」が建てられる前までは、ここが首里城の東門であったと考えられている。当初は首里の赤田集落に面していたことから「赤田御門(あかたうじょう)」とも呼ばれていた。しかし後に継世門が建てられたため、門の両側に正門の「歓会門」と同じく石獅子が置かれていたこともあり、その後は愛称として「シーサー御門(うじょう)」と呼ばれたという。
外郭の門で、別名「すえつぎ御門(うじょう)」という。門の両側には、2基の石碑が建てられていて、猛威をふるっていた倭寇(わこう)に備え1544年に外郭城壁の工事を着工、1546年に工事を終え継世門を建てたという主旨が記されている。
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