首里城2026年マチカンティー

首里城を造った匠たち ─ (前編)

今回からシリーズで「首里城2026年マチカンティー」として首里城再建コラムを担当します、賀数仁然です。よろしくお願いいたします。首里城火災から3年、着々と作業が進んでいる首里城。平成の首里城と同じく、18世紀ありし頃の姿を再現すべく準備が整えられています。

残された階段と正殿の柱礎石。奥に見えるのは再建のための施設(2022年9月11日)

王府編纂の歴史書『球陽』などの王国時代記録では、1453年、1660年、1709年に火災が起きています。日本の沖縄県になってからは1945年の沖縄戦にて地形が変わるほど破壊しつくされました。戦後の大規模な発掘調査(1985年)では、「基壇」という基礎の部分が見つかっています(この正殿遺構が世界遺産に登録されています)。正殿は7回におよぶ建て替え工事があったようです。首里城は、長い歴史の中で、何度も姿を変えてこの地で輝き続けてきたわけですね。

正殿遺構。長い歴史の中で徐々に拡張していったことがわかる
画像提供:沖縄県立埋蔵文化財センター所蔵

言い換えれば、我々が知っている首里城はある期間の首里城ともいえるわけです。琉球の中心として450年以上の歴史を担ってきた首里城は、多くの人々の手によって、姿を変えながら再建されてきました。多くは記録に残らない、名もなきウチナーンチュたちがいたはずです。歴史上では限られていますが、首里城に関わった匠を紹介したいと思います。 「見せる復興」として、現在首里城正殿があった場所では、龍頭棟飾りを見ることができます。首里城の屋根、日本の城なら鯱(しゃちほこ)がある場所に設置されていた龍です。龍のヒゲ、目玉など、むしろ今の方が近くで見ることができますので、その大きさ、質感がわかると思います。とても見事です。龍頭棟飾りは、陶器でできています。そうヤチムンですね。これは現代の復元だから?実は高度な技術を持った者が琉球にいました。先の『球陽』巻七、尚貞王十三年(1682年)によりますと、正殿を改築する時(火災以外でも改築があるところも重要)、平田展通という匠がこれを造ったことがわかります。


正殿の屋根にあった龍頭棟飾の残ったものを見ることができます

彼は、幼少の頃より彫刻の腕を王府に認められた天才肌。25歳の時(1665年)、在番(那覇にあった薩摩の出張所)の役人、諏訪仲左衛門からの注文で、「西行之像」を製作。西行は、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した日本の僧であり、歌人でもあり、あの芭蕉も影響を受けたわび・さびの先駆者。江戸期の日本の文人が好んで人物画を飾る芸術のカリスマでもりました。平田の作品は出来が良かったのでしょう、王府より功績が認められ湧田原(現在の沖縄県庁があるあたり)に、屋敷を下賜されました。その後、中国にも留学。技術を学び、帰国。王国が誇るアーティストへと昇りつめます。

平成に復元された正殿の屋根にあった龍頭棟飾り
画像提供:一般財団法人沖縄美ら島財団

そしていよいよ、首里城の屋根のデコレーションを担当。先にも後にも平田の仕事は、琉球建築の中でも、特別な仕事といえるでしょう。「あまねく四境を巡り、五彩焼甍の薬剤を求め(球陽)」とあるので、琉球国産だけでなく、国境を越えてまで釉薬を探しに行ったということになります。こだわります、攻めます平田。経験と実績、なによりも飽くなき探求心と意欲がなせる技。当代きっての匠の思いがあの龍なのです。

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