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ついに令和の首里城再建へ動き出しました。沖縄島北部、ヤンバルからオキナワウラジロガシが運ばれ、11月3日、起工式を迎えました。セレモニーでは多くの人でにぎわい、首里城は久しぶりに活気を取り戻したようでした。平成首里城の時の映像を見ましたが、同じように「国頭サバクイ」が流れ、多くの人が紅の城再建へと希望を膨らませていることが、伝わってきました。王国時代の再建・改修工事等では、こうして多くの人の手と、時間がかけられたのだろうと改めて感じました。そして、平成首里城は、沖縄戦の焼失からの復活でした。察するに余る労力と時間が費やされたはずです。長い歴史の中で、多くの人々が関わり、首里城はその姿を変えながらも、同じ場所に400年以上も誇り高く存在し続けました。
今回は平成の首里城復活に関わった匠たちを見ていきたいと思います。18世紀といえば、1709年の火災、その後の再建がありました。その後も幾度かの大小の改修工事がありましたが、当時の王府官吏によって、後世のために記録を残してくれました。例えば、『百浦添御殿普請付御絵図幷御材木寸法記』には、正殿の塗装に関しての情報がありました。また、国宝尚家文書の中の『百浦添御殿御普請日記』には、 格子戸の朱色に久米島の赤土が使われていることが記載されていました。当時の再建チームは、足を棒にして島中を探し回りました。なんと記載されていたような赤い土が見つかったのでした。残してくれた資料の精度と、平成再建チームの執念です。
少し前ですが、県立博物館・美術館にて、首里城正殿などの彫刻に携わった、石川県の彫刻家、今英男(いまひでお)さん(故人)の展示を見てきました。試作品の木型に書いてあったメモに、どのように仕上げていくのか、注意すべき点など、匠ご本人のメモがあり、首里城への思いと苦悩が見て取れました。
「首里城は巨大な漆製品」そう教えていただいたのは、平成の復元に携わった 前田孝允(まえだこういん)さん、奥様の栄(さかえ)さん。以前、当時のお話を聞いたことがありました。とても苦労された話を、“楽しそうに”してくれたことが印象に残っています。首里城はお二人の子供だと話してくれました。なるほどと思いつつ、心から首里城が好きなのだと感じました。孝允さんは、この度の火災でも、復活の意気込みを語っていましたが、残念ながら鬼籍に入られました。
同じく平成首里城で赤瓦を焼き上げた奥原祟典(おくはらそうてん)さんは、テレビ番組にもなりご存知の方も多いと思います。奥原さんの父、祟実(そうじつ)さんは、戦前の瓦職人。なんと昭和の改修工事に携わった人物でしたが、大病を患ったため、平成復元への参加を断念しました。そこで、奥原家で唯一、祟実さんの手ほどきを受けていた祟典さんが動きました。色と強度、雨水への耐性に納得がいかず、何万枚もの失敗を繰り返し、ようやく完成した頃には、10kgも瘦せてしまっていたとか。お父様に、奥原の瓦の首里城見せられたことが一番嬉しかったとインタビューに答えていた姿が心に残っています。
現在はお二人とも鬼籍に入られており、今回の再建で、瓦が危ぶまれたニュースがありました。私は、以前、前田さんが「工芸の技術は20年何もしなければ失われる、首里城の漆は何度も塗り直しがあるから、継承できるし、若手も育成できる」と、力強く話していたことを思い出しました。一方で、奥原さんの手掛けた、平成首里城の瓦はとても強く、今回の焼失まできれいに残っていました(実際、乾隆三年(1738年)の瓦が沖縄戦でも残った民家から見つかっています)。
今回、奥原さんの瓦の再利用を含め、沖縄県の工業技術センターにて、配合と焼成試験を繰り返し、赤瓦の製作目途がついてきたようです。また、首里城では、残存した瓦の破片を再利用できるよう、来園者にボランティアで破片を粉砕してもらうシャモット製作体験のコーナーを木曳門近くで行っていました(2022年11月末まで)。
平成首里城は、今回の技術検討委員会で委員長を務める高良倉吉さん(琉球大学名誉教授)を含む、多くの沖縄の人たちの想いで再建されました。王国が消滅し、戦火により徹底的に破壊されてしまった首里城を、残されたわずかな資料と地を這うような努力で挑んだ匠たちの熱い思いを感じました。今回は「見せる復興」として、継承された技術と想いを見守っていきたいと思います。
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