首里城2026年マチカンティー

世界遺産をつなぐもの ─ (前編)


首里城の火災から3年以上が経過しました。着々と“見せる復興”は進んでいて、首里城に行く度に驚きがあります。今思い返せば、罹災時は、沖縄だけでなく各方面がどんよりとしました。追い打ちをかけるようにコロナ禍が世界を揺るがし、しばらく首里城公園もお休みになりました。昔はどうだったのだろうと考え、歴史をヒントに調べてみることにしました。2019年の火災が5回目の火災ということがわかりました。さかのぼって、直近では沖縄戦、つまり琉球王国から沖縄県になって2回目です。王国時代だと3回の火災がありました。首里城のおよそ450年の歴史で3回です。この数字をどう感じますでしょうか?木造建築の時代とはいえ、火を使わなければ生きていくことはできません。私は、少ないと思うのですよ。
例えば、江戸城だとおよそ250年の間に8回の火災、うち5回が本丸全焼です。もちろん、火の怖さは誰もが知っていたことです。将軍が暮らす江戸城だって、火の用心は欠かせなかったでしょう。それでも避けることができない事だってあります。悲しい出来事を乗り越えていくヒントを歴史から探してみました。

「見せる復興」が進む首里城
「見せる復興」が進む首里城

王府編纂の史書『球陽』によると、1453年志魯布里の乱で王位継承をめぐりお家騒動が起きて、火災に発展。1660年と1709年は火の不始末によるもののようです。いずれも、再建され、復活します。日本史でいうところの江戸期です。当時の背景を考えてみましょう。
まずは、1660年。その前から琉球は大交易時代の終焉を迎えていました。なにより1609年の薩摩侵攻のショックがありました。琉球は仕上世(しのぼせ)という税を薩摩から課されていきます。さらには、1644年、中国は明から清に変わります。“万国の架け橋”としてアジアに君臨した琉球は、急激な情勢の変化に対応を迫られながら、再興を模索していました。火災はそんな中での出来事でした。

野国総管・儀間真常・蔡温が祀られている世持神社(奥武山公園内)
野国総管・儀間真常・蔡温が祀られている世持神社(奥武山公園内)

明るい話題もありました。儀間真常によるサツマイモの普及、そして砂糖の製糖業の成功などがありました。琉球の歴史はピンチになると、人材が出てきますね。少し遅れて、羽地朝秀という男が出てきます。彼の初期の大きな仕事は、王城火災のため薩摩に税を免除してもらうことでした。そして、1666年に摂政という役職につきます。国王に代わって、国家運営をおこなう最高権力者です。薩摩への留学経験もあり、パイプ役としてもうってつけでした。

羽地朝秀の眠る墓
羽地朝秀の眠る墓

琉球の国王が代替わりすると、中国から使節団がやって来ます。冊封という一世一代の外交儀礼です。火災後、尚貞王の冊封(1669年)がありました。この時は正殿の代わりに、大美御殿で行われました。まさにイレギュラー対応ではありましたが、世替わりともいえる大改革が行われました。羽地朝秀は、どんよりとした重い空気に大鉈を振るいます。開墾した土地の所有を平民に認めることで農村を活性化させました。好調の砂糖の生産、ウコンの専売などで7年かけて国の財政も立て直します。士族の意識改革にも着手。琉球士族たるもの襟を正せといわんばかりに、学芸を推進しました。儒学はその柱となりました。今私たちが琉球的だと感じる文化の基本が、この時代にはじまるのです。まさにピンチはチャンス、すごいですね。正殿という琉球国の中心を失うことだけでなく、前後して悲しいことが立て続けに起きてしまうこと。たまたまかもしれませんが、人々が悲観的に思ってしまうのもしょうがないのかもしれません。起きてしまったことはしょうがないのですが、ただうつむいたままでもいけないのだと、羽地朝秀に教えられた気がします。儀間真常しかり、あの当時踏ん張った、名もなき琉球の人々がいました。それがなければ、世界遺産にも登録されていなかったかもしれません。調べていくと私がそう思えるようになりました。次回は、次世代へと託した1709年の話です。

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