首里城2026年マチカンティー

首里城正殿復元事業インタビュー


幸喜 淳さん(一般財団法人 沖縄美ら島財団)

―現在の塗装彩色のお仕事に就くことになった経緯を教えてください。

大学卒業後、沖縄県の文化財課で臨時任用勤務していたときに、“無形文化財”の保持者の先生方との出会いがありました。その方たちのお話を聞いていると、やはり工芸の世界で生計を立てるのが難しいという現実に行き着くんです。
特に漆に関してはそもそも職人の数が少ないですし、沖縄県の工芸振興センターを卒業しても、生活のためにコンビニとかでアルバイトをしながらなんとか漆の作品を作っているような状況でした。だから、首里城の外壁の塗り直しもずっと県外の業者さんがやっていて。それをなんとか沖縄の人たちでやれないか、という話が2006年頃に国営沖縄記念公園事務所の方から持ち上がったんです。でもその時点では沖縄にそれができる事業者がいない。じゃあ作りましょう、と。
県内の技術者を育成するために、まず美ら島財団が職人さんたちを全員雇用して基本的な収入を確保してもらい、そこで生計を立てながら本物の漆を触って勉強し、空いている時間で作品を作ることができないかと。そのため、この事業を受けたのが始まりです。

インタビュー風景

その事業を通してしっかり沖縄の職人グループが育っていたので、首里城の火災後、建物の外側も内側もすべて沖縄の人たちで塗ることができる状況になっていたんです。
当時、みんなで始めたことがこうして繋がっていて、やってよかったなというのが今思うところです。

―首里城の火災が発生した日、幸喜さんや美ら島財団の職員の方たちはどうされていたのでしょうか?

火災が起こった日は明け方に美ら島財団のスタッフから連絡が来て、すぐに全員現場に駆けつけました。正殿の目の前にある首里森御嶽のあたりへ行ったら、もうあちこちで消防隊員が地面に倒れ込んでいるんですよね。休憩所がないということで、上空には報道のヘリコプターが飛んでいたこともあり、なんとかしなければと近くにある「系図座」の建物を開放し、消防隊員の方を誘導しました。

当初は現場の消防本部が奉神門のあたりにあったんですが、火災の影響でどんどん後ろに下がってきたので、テーブルを運んだり荷物を運んだりして、当日はずっと火災現場の目の前にいました。その日は他に私たちがやれることもなく、とにかく物を動かすことしかできない状況でした。

ただ、火災現場の中にさまざまな美術工芸品が保管されていたため、展示室や収蔵庫の方がどうなっているのかはずっと気になっていました。消防の方に危ないから離れるように言われていたんですけど、どこかから少しでも中の状況が見えないかと「京の内」あたりに行ってみたりして。でもやっぱりすさまじい煙で苦しくて、さすがにここにずっといるのは危ないと感じました。

(画像提供:沖縄総合事務局)

京の内方面から見た火災現場

―収蔵品の被害状況について教えてください。

火災の翌日、消防から立ち入り許可をもらってみんなで一斉に中に入っていったんですが、くすぶっていた火種に一気に酸素が送られたからなのか展示ケースの中から煙が上がったため、すぐに消防の方がガラスを割り、中に直接水をかけて消火しました。
その前までは火災が完全に収まるまで収蔵庫は開けないほうがいいんじゃないかという話をしていたんですが、やっぱり全部開けて確認しようということになって、エンジンカッターで全部切ってもらって収蔵品を一斉に緊急避難させる流れになりました。

当時、県内で唯一の美術品輸送の業者さんが美術品運搬専用車を出してくれて、作業スタッフさんもみんな完全にボランティアで協力してくださって。文化庁や沖縄県立美術館・博物館、浦添市美術館、那覇市歴史博物館からも学芸員が集まって、財団の職員と一緒に火災現場から収蔵品を搬出しました。

(画像提供:沖縄総合事務局)

火災現場での幸喜さん(右端)

3日目からは県立博物館に移動させた収蔵品の状況を確認するため、消防の“トリアージ※”じゃないですけど被害の大小も含めてひとつひとつすべてチェックする作業が始まりました。

※災害など多数の傷病者が同時に発生した際に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を決定すること

収蔵庫自体は、建物の中に金庫のような形で二重に守られているので燃えたりはしていないんですが、火元に近かった収蔵庫では消火の水が内部に入ってしまったりして、熱と水による被害がありました。

収蔵品等の確認報告|首里城公園

また、収蔵品すべてを県立博物館の大部屋にずっと置いておくわけにもいかないので、その合間合間で被害の少ないものは県立芸大の収蔵庫に移動したりと緊急保管場所の調整もしていて。
マスコミ対応や被害状況の取りまとめもしなければならなかったので、とにかく疲れたことを覚えています。細かい部分はあまり覚えてないんですが、火災からの3日間は心身ともに消耗していました。

被災した収蔵品は、首里城基金を活用し令和3年度から本格的に修理が開始されました。最新の状況は下記より確認いただけます。
首里城基金 | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城

―今回、首里城正殿の塗装に平成の復元時とは異なる「久志間切弁柄」を使用していると伺いました。その経緯などを教えていただけますでしょうか?

インタビュー風景

平成の復元の段階で、当時の委員の先生方は、既に資料から琉球王国時代の行政区画である「久志間切」に王府が弁柄を発注しているということは分かっていたんです。でも当時は建物の復元だけで手一杯で弁柄まで追求することができず、懸案事項として残っていたそうです。
「久志間切」というのは今の名護市の東海岸側と東村の一部の地域なんですが、その小さな区域だけで探すのは今も難しいんじゃないかということで、まずヤンバル一帯で赤くなりそうなものを片っ端から採ってきて調べるということをやっていました。
そのなかで、焼物の釉薬としても使われる鉄分を非常に多く含んだ「鬼板」や「高師小僧」※といった鉱物が北部で見つかったんです。

※鉄化合物をふくむ鉱物で、褐鉄鉱(かってっこう)の一種。

それらを細かく粉砕したり水簸(すいひ)※したり顔料になるかいろいろ試してみて、一旦「鬼板」で淑順門(しゅくじゅんもん)を塗ってみたんです。すると顔料としてはいい感じだったんですが、桐油と混ぜて塗料として使ったときに乾燥しにくく使い勝手がよくないという声が現場からあがってきました。

※水簸(すいひ):天然の土や鉱石を水で洗い分け、粒子を精製・分類する伝統的な技法。

もっと機械を使って細かく粉砕して加工したらまあまあ使えるんじゃないかということで、もうこれで決定かなと思っていた時に、まったく別のルートで北部地域に住む中学生から「自分たちの集落にある川が赤いんですが、この川は何で赤いんですか?」という質問があったんです。自分たちは “血の川” と呼んでいる、と。
これは絶対に鉄バクテリアによる鉄由来の赤だろうということで現地に行ったら、まさしく鉄バクテリアで、しかも普通はちょこちょこと見られるものが大量にあったんです。

作業風景
(画像提供:沖縄総合事務局)

久志間切弁柄生産箇所視察

作業風景
(画像提供:沖縄総合事務局)

久志間切弁柄生産箇所の川

それで、これまでずっと鉱物系のものばかり探してヤンバルを歩いていたのを、もしかしたら鉄バクテリアかもしれないという意識で久志をもう一回歩いてみると、特定の季節になるとあちこち真っ赤になる一帯があったんです。側溝や山から染み出てくる水にも鉄バクテリア由来の油膜のようなものがあって赤くなっているんですよね。久志や辺野古の山手の方にはそんな場所がいっぱいあったんです。

その赤い水は地元で「カイミジ」と呼ばれているらしく、改めて聞き取りをしてみると、今は米軍基地になっている山の方に元々あった古い集落には“カイミジがいっぱい溜まっている赤い谷”という地名もあったらしいです。
そのカイミジを使って弁柄にしてみたら、元々バクテリアが作り出した物質なので粒子が非常に細かく、すぐに実用化できそうだということが分かりました。

インタビュー風景

古文書によると琉球王府から久志間切に弁柄が約20キロ注文されたものの、1811年の塗りの時には久志の人たちが集めきれず、日本から弁柄を買って予算が高くついたと。だから次の塗り直しの時には絶対に用意しなさいよ、と書いてあるんです。

で、さきほどの「鬼板」や「高師小僧」は、見つけるのは大変なんですけど見つかったら一度に大量に採れるんです。でも鉄バクテリア由来のものはすくって乾かしたらほんのちょっとにしかならないんですよね。当時の久志の人たちも弁柄を集めるのに苦労したということは、まずこれが古文書にある弁柄として妥当な理由のひとつになります。

当時の首里城の部材があれば科学的に分析してきちんと特定できるんですがそれが残ってないので、旧久志間切で豊富に採れるもの、実用化しやすいもの、と古文書と合致する条件と照らし合わせて消去法でいくと、今考えられるのはこの鉄バクテリア由来の弁柄しかないんじゃないかということで技術検討委員会で認めてもらえたという感じです。

この鉄バクテリア由来の弁柄は久米島の清水貝塚などもっと時代が古い場所からは出土しているんですけど、琉球王国時代のものに使われていたという証拠がまだ見つけきれていないんです。そのため、それを証明するための分析など、調査研究は今も並行して進めています。

―久志間切弁柄を使用することで、以前の首里城とは少し色あいが変わったりするのでしょうか?

インタビュー風景

弁柄の色だけ比べると少し暗めなんですけど、混ぜる桐油も同じなので最終的には大きな差は出てこないんじゃないかと思っています。もちろん耐候性試験や機械で経年変化の検査を行って、その上で委員会で決定しているんですけど、とはいえ実際に屋外で使用したらどうなるのかはまだ分からないので、なかなかドキドキしているところです。台風で石が当たったら…と心配もありますが、きっと大丈夫だろうと思っています。

―最後に、復元される首里城に対する思いをお聞かせいただけますか?

ここまで私たちだけの力でたどり着けたわけではなく、事業のスタートから協力していただいた建築士や陶芸の先生や地質の先生、共同研究を行った岡山大学の先生方、地元のお年寄り、と本当に大勢の方に一緒に山に入っていただいたり、アドバイスいただいたり、様々なかたちで関わっていただきました。
それが今こうしてなんとか形になったので、本当に良かったなと、ほっとした気持ちです。 引き続きこの弁柄が使われていくのであれば、関わっていただいた方々に少しでも恩返しできるのかなと思っています。
並行して、学術的にさらなる追求という部分を、今後も継続してやっていきたいと思います。

インタビュー風景

取材日:2025年11月18日


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